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世界で輝く音楽ができるまで ー音楽で世界中を繋げるピアニスト・松居慶子へ独占インタビュー!

2020.02.12
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18歳で国内デビューして1987年には全米デビューも果たし、今や全世界で活躍するコンテンポラリー・ジャズピアニストの松居慶子さん。昨年には全米リリース28枚目となるアルバム『Echo』を発表し、世界各地でのコンサートをはじめ幅広い分野で活動されています。2020年は1月、東京でのソロピアノコンサートでスタートした松居さんに、音楽との出会いから活動の中での様々なエピソードについてお聞きしました!


5歳でピアノを始め、キャリア33年!

──まずはピアノや音楽に触れたきっかけからお聞きしたいと思います。5歳の時に始められたそうですね。

松居 そうですね、普通にお稽古という感じで。ただ、母が日本舞踊をやっていたので、私にもその道をと思ったらしいんですよね。でも全く興味を示さないので(笑)、じゃあピアノをと。先生に来ていただいて、近所の幼なじみと一緒に個人レッスンを受けるところからスタートしました。

──クラシックピアノから、ということですね。

松居 そうですね、普通に。ただ、その当時では珍しかったのかもしれませんが、先生が聴音(音を聴き取って楽譜に書き記す)とかソルフェージュ(楽譜を読んで歌う)も一緒に始めてくださって、それがとても好きだったんです。でもまだ小さいですし、別にプロになろうとか全く思ってもいなくて、ピアノレッスンと学校という毎日でしたね。おてんばだったので、スポーツや生徒会など、色々やってました(笑)。

──ジャズとの出会いというのは?

松居 母が音楽好きで、家にオスカー・ピーターソンやニーノ・ロータの映画音楽のレコードがあったので、自然に聴くようになっていったんです。小学校2年生の時に、父の転勤で広島に数年住んだことがあります。転校当初は方言にも慣れず給食にも慣れなくて、「東京に帰りたい」ってベソかいてました。そんな時、「クリスマスソングをオルガンで弾きましょう」というヤマハ音楽教室のチラシが学校で配られたんです。「絶対ピアノやめないから行きたい!」と母に頼んで、クリスマスコンサートまでという約束で行き始めたのがきっかけで、ポピュラーやジャズも含めた色々なジャンルの音楽に触れることになりました。

──ここでヤマハさんとの縁ができたわけですね。

松居 はい。もうその時には譜面も読めるし、簡単に弾けるようになっていたので更に楽しくなりました。
「もっと続けるといいですよ」と勧められて、ピアノと並行しながらレッスンを受け続けました。そのうちに母が、私が作曲した作品をコンテストに応募して、そこからヤマハの本部とつながって特訓コースを受けるようになったんです。そして中学2年生頃からだんだん音楽の比重が増えていきました。私が通っていたのは日本女子大学の付属中学校で、音大の付属ではなかったんですが、芸大の先生に個人レッスンで作曲などを教わっていました。高校の時にその先生から、「音大に入学して音楽を志す人はこの時代いっぱいいる。これからは普通の大学に行って、いろんな違う種類の友達を作るのも人生の宝だよ」って言われて、「そうですね!」と。子供が好きで、いずれ子供のための曲も作りたいという希望を書いて、音楽も生かし教職免許が取れるという結構人気のあった日本女子大の児童学科に入ったんです。




──今聞くと意外な道ですね。

松居 希望学科に進めたものの、大学入学と同時ぐらいに、ヤマハのアーティストとしてプロデビューが決まりました。その少し前なんですが、18歳の時に、北大路欣也さん主演の東宝映画で「漂流」という作品ががあって、当時、ヤマハで特訓を受けていた6人ぐらいが作家集団として、サウンドトラックを担当したんです。その中で私の書いたテーマが主人公「長平」のテーマとなり、それが映画のメインテーマに選ばれました。レッスン時代は通学の往復、電車の中で譜面を書いたり、夜遅くまで音楽のことで時間を割いて寝不足になり授業中はついつい居眠りしたり・・・「困りましたねぇ」って先生に言われて(笑)。レッスンと学業とで大変だったので、「もうこれが終わったら曲作りは辞めてやる!」なんて思ってました。それが、「漂流」の音楽制作の打ち合わせで、吉村昭さんの原作をいただいき、森谷司郎監督からイメージを伺っている時に、イントロとテーマ曲が聴こえてきたんです。そのあたりから、「作らなきゃ」と思って作るのではなくて、「聴こえてくる」ようになりました。


──いわゆる「おりてくる」というヤツですね。

松居 その試写会の時に、タイトルバックに音楽が流れてくるのを見て「いやぁ、いいもんだな」と思ったんです。映像と音楽が合わさると1プラス1が2ではないんだなとゾクゾクして、映画音楽も書いていきたいと思うようになりました。その後、大学入学と同時にヤマハと契約してグループとしてデビュー。5枚ぐらいかな? レコードも出して……まあ、いつの間にかプロの道になっていたっていう感じです(笑)。

──なるほど。

松居 アメリカでは、87年に1枚目をリリースしました。その後、徐々に活動は広がっていきましたが、私は母のように、<子供の為に、学校から帰ったらいつも家で待っているお母さん>になりたいと思っていたので、長女の出産前の最後のコンサートの際には、「もうコンサートをしにアメリカには来ないかも」なんて思っていたんです。野外で満員の会場だったのですが、終了直後に、アフリカンアメリカンのおばあちゃまがいらして、「美しいものをありがとう」って涙されていて。そのあと、キャリアウーマン風の女性陣が3人ぐらい来て、「やめるんじゃないわよ!」と。「分かっちゃったのかな」ってびっくり!

──何か伝わるものがあったんですかね(笑)。

松居 結局、長女が生まれた3ヶ月後には、ロサンゼルスのグリークシアターのコンサートが入り、また渡米。その後は、子育て優先にしながらも、アルバム制作とツアーを続けていました。
次女が生まれた年は、一番コンサートの数を減らしていたにもかかわらず、アルバムからヒット曲が生まれてラジオでもたくさんオンエアされ、アルバムの売り上げも好調だったんです。実は、このアルバムにはエピソードがありまして。


音楽でつながる世界各国たくさんの想い。

──何でしょう?

松居 次女の予定日が9月だったので、誕生石からアルバムタイトルを「サファイア」にしてたんです。ところが、切迫早産気味になり、先生に「すみません、アルバムタイトルがサファイアだからまだ生まれちゃ困るんです。今からルビーとかにできない」って言って(笑)。なんとか保たせていただいて、9月を迎えて無事元気な子が生まれました。その日は、アメリカのラジオ局で「ミス・サファイアが生まれた!コングラチュレーション、KEIKO!」とタイトル曲 「サファイア」がラジオから流れたんです。なかなかハッピーでした(笑)。

──お医者さんもビックリしたでしょうね(笑)。

松居 ここまでの道のりでいろんなファンとのエピソードがあります。例えば湾岸戦争の頃、当時はまだEメールではなく、ファンからいただくメッセージは郵送での手紙だったんです。戦艦の売店で私のカセットを見つけて聴いた兵士から「自分は戦争で死ぬかもしれないし、家族にももう会えないかもしれないという絶望の中で、ケイコの音楽を聴いて光を見つけた。ありがとう」という手紙が届きました。ある時は、アメリカのファンの方から「イギリスの友人が脳腫瘍の手術をするんだけど、彼女はケイコのファンで、ずっとケイコの曲を聴いてるから彼女のために祈ってほしい」と。無農薬のブドウやお米を作ってるという方から、「ケイコの音楽は食物にもいいから、聴かせて育てたんだ」とメッセージ付きで、レコード会社にそのブドウが届いたり。

──すごい!

松居 メキシコの蝶の博物館に行ったアメリカのファンから、私の曲がかかっていたので「何でケイコの音楽を?」と館長に聞いたら、「ケイコの音楽は蝶のコンディションを良くしてくれるんだ」と聞いたとメールが届いたこともあります。色々なところで私の音楽が生かされているんだな~と知らされて、とってもありがたく思ってきました。
私自身、人生の中で大変なことがあった時に、ファンの方が次のコンサートやアルバムを待っていてくれたり、私の音楽がどういう風に他の方の人生につながってるかを知らされて、これが自分のミッションだと気付かされ、ここまで続けてこられたと思います。



──いろんなところで人の力になっているわけですね。

松居 それにどんな大変な時でも、私のところに届いてきてくれたメロディーたちはやっぱり真実。2002年ごろ、事情があってレコーディングもやめようかと思った時があったのですが、「届いてきてくれた曲たちに申し訳ない」と思い直して、完成させたアルバムがありました。それ以来、前進し続ける中で、自分とピアノとの絆も深まって更に活動の場は広がっていきました。

──それも曲の力だと。

松居 私は、私の音楽とつながってくれたファンの方とは、特別な絆があると思ってるんです。シアトルのラジオのDJは、「ケイコの音楽はただの音楽じゃない、“エクスペリエンス・ケイコ・マツイ”」と。「感情やエネルギーを一緒に体験して!」とコンサートでは紹介してくださるんです。彼女は長年応援してくれている良き理解者です。私の音楽とファンとのつながりはすごく深いと思うんですよね。私の人生にとって、ファンは大切な宝です。
私の曲を待っていてくれて、私の幸せと健康を心から祈ってくれて、コンサートで会えるのを楽しみにしてくれている。ピュアな気持ち。本当にありがたいです。
新ためてそれを意識したころ、エイベックスさんからの1枚目のアルバム、「The Road...」が生まれています。私の人生にとって特別なポイントなんです。

──というと?

松居 誰もがみんな、自分の人生のクリエイター、プロデューサーで、その道は続くという想いから「The Road...」というタイトルをつけました。自分が今世に生かされてる理由や自分の人生での選択について意識するようになりました。
そして、届いてきたメロディーをアルバムという形にして、それを持って旅に出て、いろんな人に聴いていただくというのが、私の今世のミッションなんだなと強く意識するようになりました。
ロシアとウクライナ間が対立していた時でも、私にはどちら側にも大勢のファンがいました。紛争の影響で1年間ウクライナに行けないこともありましたが、コンサート会場はいつもと変わらぬ特別な空間です。
人種も宗教も言葉も全部超えて、共に居るその会場で一緒に音楽を体感する。感情とかエネルギー、情熱、愛情といったものを分かち合って、その空間が平和な空気になるんですね。そういう空気を増やしたいという想いで、ツアーに出かけて行きます。やはりこれは、ここまでの経験から自分のミッションに気付かされたからだと思います。


前座時代、大物アーティストたちに“嫌われた”理由とは?

──活動の中でご自分の役割が見えたと。

松居 本番直前に大変なことがあった時でも、「ピアノを弾き始めたら絶対大丈夫」という感覚も自然に強まりましたね。弾いてる瞬間、曲を受け取ってる瞬間って、やっぱりどこかとつながってるんだと思うんですね。でもキャリアの初期では、あまりそういうことは意識していませんでした。昔は本当の自分をまだ知らず、信じ切ってなかったと思います。苦しい時でも、「いや、これはありがたいことなんだ」と耐えていたり・・・。でも今になれば、それは全部、「苦しいんだったら、違う選択があるんじゃないの?」っていうサインだったなと思えます。環境は変えられなくても、自分のチョイスは変えられるわけですから。そういうことに気づき始め自分の責任で選択をしながら「The Road...」を作り、それから「Soul Quest」。この地球に降りた時から、みんなそれぞれのSoul Quest(魂の探求)が始まっているということ。それから「Journey to The Heart」。ここまでの旅は、自分探し、そして、ファンの皆さんの心への旅だった。そして今回が『Echo』。

──昨年リリースされた最新作ですね。

松居 はい。参加したミュージシャン全員の心と魂が響きあっていると感じてECHOと名付けました。『Echo』を含むこの4作は、自分にとって特に意味がある存在です。最近、私の音楽を聴いて育った子どもたちが大人になって、新たな家族と共にコンサートに来てくれるケースが多くなりました。3世代、4世代に渡り、ファンになってくれているのでありがたいですね。加えて、最近の私の曲と聴いて「カッコいい!」と思ってコンサートに足を運んでくれる若い世代も増えていて嬉しい現象です。
それから、デビュー当初からアメリカのラジオで聴いてファンになってくださった多数の方々が、何年もの間、仕事や子育てが忙しくてライブに来れなかったということもわかりました。
「もう30年以上聴いていたけど、初めて生のケイコを見た。もっと早く来ればよかった!これから通うからね!」と言われる機会も最近多いです。長年のファンと新しいファンと出会いが更に拡がっているので、とてもありがたく幸せです。


──ここまでだけでも、すごく濃いお話をいただいてる気がします(笑)。

松居 自分のコンサートツアーが活動の中心ですが、マーカス・ミラーやデビッド・サンボーンがホスト役を務めるクルーズ船でのコンサートもあります。2000人のファンと1週間の航海です。
87年にアメリカでコンサートを始めた頃は、週末だけのクラブ公演や、オープニングアクト(前座)が多かったです。88年にはマイルス・デイビスのスペシャル・ゲストとして前座を務めたり、ジョージ・ベンソンやアル・ジャロウの前座を務めて、より大きな会場で多くの音楽ファンに聴いてもらえる機会に恵まれました。そのうちにオープニング・アクトなのにスタンディング・オベーションを受けすぎると言われて、だんだん敬遠されて・・・(笑)。
でも、数年前、久しぶりに再会したジョージ・ベンソンに「ケイコ、素晴らしい活躍だね、誇りに思う」とお声かけていただき嬉しかったですね。90年代になると、前座よりも、自分のコンサートの数がどんどん増えてきました。
そういう中で、当時としてはコラボレーションの走りで珍しい企画だったんですが、ジェームズ・イングラムとパティ・オースティン(大御所)を迎えたオールスター・ツアーもしました。その次の企画はチャカ・カーンとフィリップ・ベイリー、ヒュー・マセケラという南アフリカのトランペッターたちと。そのツアーの後、フィリップ・ベイリーから、私のレコーディング期間中に電話があり、「ケイコ、僕が参加する曲はどこにある?」と。



──ほう!

松居 「そんな予算ないんだけど~」って言ったら、「KEIKO~友達だろ?:)」と。6枚目のアルバムに本当に1曲参加してくれたんですよ。ハリウッド・ボウルでのジャズフェスティバルでは、私が学生時代から聴いていて大好きだったジャズの巨匠ボブ・ジェームスとグローバー・ワシントンJrと私の3組が出演したんです。その時にボブに「お会いできて光栄です」って言ったら「I love your music」って言われて、感激でした。数年後の2000年ごろ、突然日本の自宅にアメリカからの封筒が届いたんです。開けてみたら、ボブ・ジェームスが私とレコーディングするために書き下ろしたピアノ連弾曲の譜面と練習用のCDまでつけて送ってきてくれたんです。

──それはまたすごい!

松居 本当にびっくりしました(笑)。私の曲で「Forever Forever」というコンサートでは定番になっている曲があるんですが、それを元に「Forever Variation」っていう素晴らしい連弾用の編曲も用意してくれました。ボブとのNYでのレコーディングを終えてしばらくして、ボブから連絡があって「今度はKEIKOの番だ。ボクが参加する連弾の曲は?」と。
私のアルバムにも参加してくれて、その後は、連弾ツアーをしたり、長年の親友になりました。

──いろんな出会いに恵まれたんですね。

松居 本当にそうですね。そして、自分が元気である限り、届いてきた曲を届けに旅を続けようと思っています。

──ジャズの世界では、プレイヤーとしてあちこちに呼ばれるのも名誉である一方で、自分の名前でやることも大きいと思いますが。

松居 そうですね。コラボレーションのショーも限定して行なっていますが、やはり自分らしさを表現するという部分では、自分名義の作品を作ったりコンサートをする時間は大事にしたいと思っています。
多くのアーティストが一堂に会したということでの大きな思い出は、2001年、9・11のテロが起きた後に、ロサンゼルスの「WAVE」というFM局がスタジアムで開催した追悼コンサートです。
私は、日本に滞在中でしたが、「こういう時こそKEIKOの音楽だ!」と連絡を受けて。ちょうど次女の受験で親子面接の前日でもあり、厳重警戒中のスタジアムに行くこと自体危ない、と家族にも止められましが、「絶対大丈夫。無事に演奏して面接にも間に合うように帰る!」と渡米。ピアノソロで「Deep Blue」という曲を捧げました。
あの事件は本当に悲しい出来事でしたけど、普段はそれぞれにツアーしていて、なかなか一緒に会うことの無い多くのアーティストたちが集結しました。「こんな悲しいことで会いたくないけど、こういう時だからこそ音楽を捧げて祈ろう」と舞台袖で手をとりあった日が思い出されます。
主催者から「最後にサプライズがあるから、最後までいられたらいてね」と言われていたのですが、そのサプライズはスティービー・ワンダーとの出演者全員でのフィナーレでした。

10年後の3・11の震災の時には、「今度は僕らが日本のためにする番だ」とアメリカのアーティスト達がチャリティコンサートを開いてくれました。
私にも声をかけてくれたのですが、その時、私は東京に居て、まだ余震もあり家族も心配だったので、渡米せず「気持ちは皆と一緒にいるからね」と返信。
その後、「キャピタルレコードで『ジャズ・フォー・ジャパン』というチャリティアルバムをレコーディングしてるから、何時でもいいから来てほしい」と連絡があり日本から駆けつけると、TOTOのデビッド・ペイジをはじめ、ネイサン・イースト、マーカス・ミラーなど、日本の事が大好きなアーティストたちが集まっていました。私は日本人ではただ一人の参加者でしたが、貴重なコラボレーションの機会でしたし、何よりも「日本の為に」という皆の気持ちがありがたく嬉しかったです。


──アメリカでも、いろんな国のアーティストが活躍していますしね。

松居 そうですね。
音楽には本当に国境がないです。私の今のバンドメンバーはベーシストがオランダ人、ドラマーがキューバの人で、ギタリストがブラジル人です。友人のミュージシャンを考えただけでも、国籍は様々です。
私は自分の音楽をジャズとは限定していません。曲によってクラシック的な要素があるし、ワールドミュージックだったりジャズ的であったりします。自分というフィルターとして出てくるものの中で何をキャッチするかによって、方向性が変わります。「これはKEIKOの音楽だ」と分かってくれたら嬉しいですね。「やっぱりケイコのピアノの音はすぐ分かる」とファンや友人アーティストに言われることは多いです。アメリカの場合、車を運転している人が多いので、最初に私の音楽と出会ってくれたのがラジオだということがすごく多いんですよ。でも「KEIKO MATSUI」と言われても、日本人でないと、どこの国の名前か分からない方が多いようです。「キーコ」って発音されると、メキシコとかスパニッシュ系の男性の名前でもあったりするらしくて。東ヨーロッパ方面だと、「キーカ」と呼ばれます。昔は、私のコンサートに来て初めて女性だと分かった方も多かったようです。それでもどこの国籍かかは分からないかもしれないですね。まぁそんな感じなので、自分の音楽が広がったきっかけが、「女性だから」とか「日本人だから」ではなくて、私のメロディーが誰かの心とつながった結果なんだなというのが、私にとっては嬉しいことでしたね。



「日本でのコンサートでは天国みたいな気分です(笑)」

──チャリティー活動もいろいろとされているということですが。

松居 アメリカにいると、チャリティーのお話がけっこう来るんですね。一つは乳がん撲滅運動のキャンペーン。私も女性であるし、費用がかかるからといって検査が受けられないような人たちにも早期発見の大切さを訴えてほしいというアプローチがあり、直接音楽で届けられることだったらやりましょうとお受けしました。チャリティーの意図に合わせてコンサートツアーを開催したり、ミニアルバムを作ってそのために捧げたり。国連のアフリカ飢餓救済プロジェクトのためにアルバムタイトル曲をテーマ曲として提供したこともあります。その他には、骨髄バンクのドナーを募るチャリティー。少数民族のドナーが足りないということで、私も少数民族の一人なので、自分もドナー登録をしてスポークスマンになったりしました。
舞台人という立場で私が発信することによって、人の命が救われるきっかけが増えたり、患者を支えて大変な思いをしている家族が元気をもらえたりしていると、医療関係者の方たちから感謝されることもありました。お役に立てる限り、これからも音楽を通じてチャリティー活動はやっていきたいと思っています。

──それも音楽の力ですね。

松居 2014年に子供のためのチャリティーを始めました。私の音楽と接していれば、貧しい国の子供たちが非行に走ったりせずに、希望を見出せるはずだと信じてくれている方と出会い、その方と日本政府の協力もあり、ペルーから始めました。首都のリマでは、水や電気が不足していて貧しい生活を強いられている地域の子供たちに、ジャズオーケストラを作って、演奏の体験をさせていると知りました。その子ども達とのワークショップの時間を設けたり、一緒に演奏する機会を作ったりしました。
今年はパラグアイでチャリティー活動をというお話があるので、なんとか時間を作って実現させたいと思っています。

──そういったキャリアの中で、日本国内での活動というのは今はどんな位置づけですか?

松居 2002年ぐらいは、日本でも年に2回はオーチャードホールや芸術劇場ホールでのコンサートを行ったり、日本のTVなどでも活動していましたが、最近は海外のコンサートが増えているので年1回くらいのペースです。「東京だけじゃなくて北海道にも来て!」「名古屋にも来て!」と、ファンの方からお言葉いただくので、公演を増やして、ECHOの音を日本各地にも届けられたら幸せです。 


──先日、1月13日にもコンサートがありましたが、今、そうして活動が広がっている中で、日本で演奏する時というのは気持ち的に違うものがありますか?

松居 里帰り公演という意味ではやっぱりすごくうれしいですし、日本ではスタッフさんが皆さんホントに素晴らしく、職人気質でお仕事をされるので、そのサポートを受けられて天国にいるみたいです(笑)。

──そうですか(笑)。

松居 普段一緒に旅しているメンバーは、私を除き、皆男性です。移動中に一人旅のことも多いので、放っておかれて大丈夫なんですよ(笑)海外のコンサートでは、ヘアメークさん無しで自分で全部支度しますし、本番30分前にオーケストラとのリハーサルを終えて、猛スピードでメイクと着替えをして本番なんてことも珍しくないんです。でも日本の場合は、取材でもメイクさんがついてくださったり、いろいろ違うなと(笑)。そこが日本の素晴らしいところだし、全てが綿密でクオリティも高い!アルバムジャケットのプリントにしても、日本は最高!ここだけの話(笑)。

──そんなに違うんですね。

松居 ただ、アメリカと比較すると、日本の場合はトレンドであるとかヒットしてるとか、テレビにいっぱい出てるとか、そういう情報からファンが増える傾向があるのかもしれません。アメリカの場合は逆にすごく素朴というか、自分が音を聴いていいなと思ったり、自分が惚れたらとことんファンになってくれて、トレンドだとかそういうことはあんまり関係ない感じですね。



──なるほど、確かにそんな感じはありますね。

松居 日本のファンの方とは、ファンミーティングという形で、1年に1回集まってきました。長年応援してくださっているファンの方は、「慶子さんのことは自分たちだけ知ってればいいと思ってたけど、それじゃいけない、他のみんなにも広めなきゃいけない。反省してます」なんて言ってくださったりして(笑)。ツアー中、日本語でソーシャルメディアに書く時間がなかなか取れないんですけど、それでも「いいね」してくれたり。海を越えて、サポートを感じてとても嬉しいです。
海外の方は、私は日本語で書いてる時でも、内容に関係なくコメントしてくるんですよ(笑)。自分がどんなに私の音楽が好きかとか、自由気ままに。それも嬉しいですね(笑)。

──そういう違いというのは、ライブでの聴衆の反応の違いにも現れますか?

松居 そうですね。でも日本のお客さまも、ブルーノートでショーを重ねてきてますけど、皆さんの反応は20年前に比べたら全然違うと思いますね。そのエンターテインを一緒に楽しむという気風が広まってるなって感じます。やっぱり国とか地域によって反応の違いはありますね。2002年ぐらいにモスクワの国一番のシアターで初めてコンサートした時にはすごく静かで、クラシックのコンサートみたいな感じでした。子供もスーツを着てるし。でも1曲目が終わったところで拍手が鳴り止まず「ブラバ!」「ブラバ!」と。やがてそれが手拍子になったんですよ。それって日本で言うならば最後の「アンコール」「アンコール」の乗り。止まらなくて困っちゃったんですけど、それが彼らのスタイルだったんですね。サイン会もまた特徴的。セキュリティーのおじさんたちが何人もついててもテーブルが押しやられてしまうぐらい熱烈なんです。かと思えば南アフリカのコンサートでは、私のピアノ演奏に観客が「ケイコ!ケイコ!ケイコ・マツイ!」って言葉を乗せて合唱してたり(笑)。アパルトヘイトが廃止された直後ということもあって、音楽に対する情熱がすごいなと思いました。

──これから挑戦したいこと、やっていきたいことはありますか?

松居 地域としては西ヨーロッパにはフェスティバル以外であまり公演の機会がなかったので、増やしていきたいなと思います。あとは、オーケストラとのコンサートの形態を日本にも持ってきたいなと思っています。「この舞台に立ちたい」とか「この人と共演したい」みたいな願望は、言ってるうちにかなり叶ってしまったんですけど(笑)、スティングが好きなので、これも言っていたらそのうちに叶うんじゃないかと思ってます(笑)。ロシアのフィギアスケーター達(イリナ・スルツカヤは金メダル受賞)が、私の曲を使って演技しているので、フィギアスケーター達とのライブイベントなどもやってみたいですね。

──実現をお祈りします(笑)。

松居 日本での活動も、待ってくださるファンの方々がいらっしゃるので、考えていきたいですね。まずは聴いてくださる方がもっともっと増えてくれることを望んでます。


松居慶子
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最新アルバム『Echo』

2019.02.22 Release
AVCD-96215
高崎計三
WRITTEN BY高崎計三
1970年2月20日、福岡県生まれ。ベースボール・マガジン社、まんだらけを経て2002年より有限会社ソリタリオ代表。編集&ライター。仕事も音楽の趣味も雑食。著書に『蹴りたがる女子』『プロレス そのとき、時代が動いた』(ともに実業之日本社)。

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