BoA
日本デビュー20周年を迎えたBoAのロングインタビューを公開!
2021.11.05
——2001年5月30日、14歳という若さで日本デビューしました。日本でデビューすることが決まったときのことを覚えていますか?
BoA:「あ、行くんだ?」っていう、ライトな感じでした。
若かったからこそ、日本デビューとか海外に行くっていうことを一大事に感じられなくて。
今、たとえば「アメリカに行きます」って言われたらプレッシャーもあるし、いろんなことを考え始めるけど、
当時はシンプルに考えてましたね。
——「やったー!」みたいな嬉しさはありましたか?
BoA:嬉しいというよりは、当時は今みたいに日本語が話せなかったから、まず言葉をどうしよう?って。
それまで日本語の勉強はしてましたけど、大至急、授業の時間を増やしました。
——当時の日本の印象は?
BoA:日本は派手な場所だなって思いました。渋谷のスクランブル交差点とか、あまり海外で見られない風景じゃないですか。あと、若い子の外見も当時は、みんな肌が黒くて金髪だったから。ヤマンバギャルとか、ガングロとか。
「なんか私、白いかも…」って思ってました(笑)。
——日本と韓国で活動を始めたときに、どのようなことが一番大変でしたか?
BoA:飛行機での移動です。時差がなかったのはありがたかったんですけど、朝イチの便でどちらかに行って最終便で帰ったり。距離が近いし、本数が多いからこそ、そういう移動が大変でした。
——日本と韓国で文化の違いを感じた場面は?
BoA:いちばんびっくりしたのはCDショップをまわること。日本で初めてやりました。
当時、タワーレコードとかHMVとかTSUTAYAとかに行って、大きいなって思ってました。
あとレンタルショップが新鮮でした。韓国にそういうお店はなかったから。
——デビュー当初、日本語でのレコーディングはどうでしたか?
BoA:最初は、日本語のタ行とかザ行とかの発音が難しかったです。
——日本語の歌詞はどうやって覚えていたんですか?
BoA:まずハングルで書いて内容を覚えて。ひらがなとカタカナは当時から読めたから、漢字にルビを振ってもらって、
それを読みながら歌っていました。あと、日本語の小さい「っ」は、歌によって伸ばしたり、伸ばさなかったりするから、最初はそれが難しかったです。
——今では漢字も読めるようになりましたが、日本語は漢字で書かれている方が意味がわかりやすいんじゃないですか?
BoA:そうですね。漢字の方が読みやすい場合もあります。
ひらがなで読み方だけ書いてあると、どこで文章をきるかわかりづらかったりもしますし。
でも、いまだに漢字にルビは振ってもらいます(笑)。
——ちなみに、デビュー当時、最初に覚えた日本語は?
BoA:「田中さん、出張はどこですか?」(笑)。
文章で一番出てくる名前が日本だと田中さん、韓国だとキムさんとか、スタッフの名前だったし、仕事で使う日本語を最初に教えてもらって覚えたんです。「出張」とか「会議」とか「電話、代わってください」とか。
——「お疲れさまです」とか?
BoA:そうです。「お疲れさまでした。今日の会議は素晴らしかったです」とか(笑)。
——すごい14歳ですね(笑)。
BoA:でも、それが良かったです。日本に行って仕事で会う方々は全員年上の方だったから、タメ語とかじゃなくて綺麗な日本語を教えてもらえたので。インタビューでも、BoAさんはすごく綺麗な日本語を使える人ですって言われるようになりましたから。
——2003年に、ファーストツアーとなる「BoA FIRST LIVE TOUR 2003~VALENTI~」を行いました。最終公演は国立代々木競技場第一体育館という大きな会場でしたが、そのときのことを覚えていますか?
BoA:実はあまり覚えてないんです。初めてのツアーで、全部日本語で、まずはパフォーマンスすることに精一杯だったから、目の前の光景の記憶が無くて。それが悲しいです。たまにそのときの映像を見ると、「うわ、すごい。なんでこれを覚えてないのかな」って残念に思います。
——日本での音楽活動で印象に残っている楽曲はありますか?
BoA:「LISTEN TO MY HEART」ですね。初めてオリコン上位(5位)に入った曲なので、驚いたし、すごく嬉しかった思い出があります。あと、最近すごく思うのは「メリクリ」です。もう15年以上前の曲だけど、いまだに冬になると街で流れるっていう話を聞くとありがたいなって。
——「メリクリ」はBoAさんにとって、どのような存在の曲になりましたか?
BoA:もともと好きな曲だし、きれいな曲だな、素敵な歌詞だなと思っていたんですけど、みなさんから愛してもらって、こんなに長い期間、聴いてもらえることはすごく嬉しいです。外国の歌手が歌った日本語の曲が、日本の冬の定番曲になったわけじゃないですか。自分が生まれてない国で、その季節になるとその歌手の曲が街中で流れるっていうのは、歌手として誇りに思います。
——振り返ると、ライブでは「メリクリ」で泣くことが多いですよね。
BoA:メロディーが明るいんだけど切ないんですよ。明るいからこそ、心に響く切なさがあるんです。悲しい涙というより、嬉しい切なさだから、歌っててジーンときちゃう。
——10周年ライブ「BoA THE LIVE 2011 “X'mas” ~The 10th Anniversary Edition」のアンコールでも「メリクリ」で感涙しました。その後、DVD用に歌い直したときも涙をこぼしていました。
BoA:1回目は「幸せだなぁ、私。こんな嬉しいこと、ないな」と思って泣いちゃって、結局、歌えなかったんです。
そしたらスタッフからDVD用の撮影があるからもう1回歌ってって言われて。2回目に泣いたのは悔し涙です(笑)。
——日本の音楽活動で、特に印象に残っているMVはありますか?
BoA:「メリクリ」です。途中で降ってくる雪は「CGでしょ?」って言われるんですけど、本当の雪なんです。
その年のトマムの初雪で、あの場で奇跡のように突然、降り出したんです。MV自体もきれいで思い出深いんですけど、
撮影の翌日の朝、部屋の窓から見えた風景が本当にきれいでした。
誰もまだ踏んでない、足跡の付いてない白い雪。あの風景はいまだに思い出します。
——MVは海外でも撮影されていますが、特に覚えているロケ地はありますか?
BoA:苦労したという意味で覚えているのは「KEY OF HEART」です。
ロサンゼルスで撮ったんですけど、砂漠で、あのヒールブーツで踊るのは本当に大変です。もう膝が痛くて(笑)。
あのMVを見ると大変だったなぁって思い出します(笑)。
——では、特別印象に残っているアルバムはありますか?
BoA:アルバムは、どれか特別に、というより、ファーストアルバムの『LISTEN TO MY HEART』から最新の『私このままでいいのかな』まで、それぞれに思い出があります。
——2010年発売の7枚目『IDENTITY』は、BoAさんが作詞6曲/作曲4曲を手掛け、その後のセルフプロデュースの足がかりになった作品のように思います。
BoA:『IDENTITY』は、いろんなチャレンジがあって、制作がいちばん大変だった覚えがあります。
私自身、曲作りに関して、まだ慣れてない時期だったから、作詞にしても作曲にしても勉強しながら作り上げた感じでした。
——10周年以降は、「Only One」をはじめ、ご自身で作詞作曲する機会が増えました。曲作りで意識していることを教えてください。
BoA:曲調とか歌詞とか、みなさんが求めるBoAはスタッフさん側で作れると思うんです。
だからこそ、自分が書く曲に関しては、自分が今やりたい曲調、伝えたいことを書くようにしてます。
だからギャップはあると思うけど、そこにいちばんプライオリティを置いてやっています。
——作詞を行うときに一番気をつけていることは?
BoA:ストーリーの流れです。みなさんが曲を聴いて、自分の経験と重ねられる曲になって欲しいなと思いながら書いています。
——「Only One」を始め、BoAさんは韓国語バージョンと日本語バージョンがある楽曲を多く歌ってきました。韓国語の歌詞と日本語の歌詞にはどのような違いを感じますか?
BoA:表現に違いがあるなと思います。それは文化の違いかなって思うときがあるんですけど、韓国語の歌詞は伝え方がストレート。日本語の歌詞は何かに例えたり、比喩したり、遠回しに伝える感覚があります。
——日頃、曲作りをする際に、言葉やメロディーが沸いてくるのは、どのようなときですか?
BoA:私は日頃から沸いてくるタイプじゃないんです。「締切だ!やばい!間に合わない!」くらいになると、やるぞ!って感じで机に向かうタイプ(笑)。
——曲作りをする時間帯は?
BoA:基本的に夜はしないです。今日は作業をやる日だと決めたら、午前中から始めて夜9時とか10時になったら締める。去年出した韓国での最新アルバム『BETTER』では、4曲作詞/3曲作曲しましたが、それも昼間から夕方に作業して終わりました。みんなが仕事する時間に仕事して、みんなが遊ぶ時間に遊ぶ。そうやって集中して作るんです。
——2006年に始まった「BoA THE LIVE」というライブシリーズは、ブランド化してBoAさんの代名詞といえるライブになりました。BoAさんにとってライブとは、どのようなものですか?
BoA:最近はライブに対する思い入れがすごく強くなってきました。特にこの2年間は、コロナ禍でライブが全然できてないから、ライブってすごく大事なものだなって。唯一、ファンのみなさんと私が同じ場所で同じ時間を過ごせる場所だから。以前は、ライブを仕事の一環と思っていたから、ライブをやるのは当たり前という感覚だったんです。
でも、今は当たり前のことが当たり前じゃなくなってきた。これからもっともっとライブを大事にしていかなきゃって思いました。
——ライブを行うときに大切にしていることは?
BoA:セットリストのクオリティです。それがライブ自体のクオリティに繋がると思うから。
セットリストを見て、私がつまらなさそうだなと思ったら、正直、ファンもつまらないと思うし。
——セットリストの作り方は変わってきましたか?
BoA:以前は、昔の曲を歌うのがそんなに好きじゃなかったんです。だけど、他のアーティストのライブに行ったときに、自分が聴きたかったヒット曲を歌わないと「なんで!?」って思ったりするんですよ(笑)。
きっと私のライブに来るファンのみなさんもそういう気持ちになっているんだろうなと思って、あまり歌ってなかった昔の曲とかをセットリストに入れるようにしています。
——20周年を迎え、今のBoAさんが表現したいことや挑戦したいものは?
BoA:最近、韓国で「STREET WOMAN FIGHTER」という番組の審査員をしているんです。女性ダンサーたちがダンスでサバイバルしていく番組なんですけど、踊りに関してすごく良い影響をもらっています。なので、ダンス曲を出してみたいなって思っています。重いビートの曲でかっこよく踊る、ダンスをメインにした曲に挑戦してみたいです。
——コロナ禍のステイホーム中は、どのような過ごし方をされていましたか?
BoA:家で料理して食べていました。日本に行けないから、日本食を作って食べたりもしました。
蕎麦が好きなので、蕎麦を茹でて、つゆも買って、わさび買って、大根をおろして食べました。あと、去年は外でのランニングが増えました。韓国の漢江(ハンガン)という川の両サイドに公園があって、そこを毎日10キロメートル近くランニングしていました。でも走りすぎて、去年、体重がめちゃくちゃ減ったんです。痩せすぎも良くないから、今年は体重を増やすように努力しています。
——音楽面で変化はありましたか?
BoA:私はもともとアンタクトな生活だったから、人に会えないことに対する辛さはあまりないんです。
マスクも喉のケアのためにいつもつけていたから、不自由に感じないんですけど、海外に行けないとか、ファンに会えないことからくるストレスで、自分で作る曲に結構ダークなものが多くなりました。自然とそういう影響が曲作りに表れていて、歌詞もわりと暗いものが増えましたね。
——音楽制作やレコーディング面ではどのような変化を感じていますか?
BoA:リモートでレコーディングすると、自分がアバターになったようで不思議な感じでした。でも、そういう作業にもこれから慣れていくというか、それが当たり前の時代がやってくるんじゃないかなって思います。
——データのやりとりで音楽を作ることも当たり前になってきています。
BoA:オンラインレコーディングは、データのやりとりとはまた違う変な感覚なんです。
自分が今、歌っている曲を日本で誰かが見て聞いているって思うと、なんだか覗かれている感じがするなって。
歌っている側の私はそう思うんですよ。今、こうやってリモートインタビューで話している映像も、見ようと思えば、どの国からでも見られるわけじゃないですか。それが少し怖いというか、不思議な感覚というか。それにも慣れていかなきゃと思うけど、できれば日本に行って、直接スタジオでレコーディングしたいです。
——この20年で、音楽に向きあう姿勢はどのように変わってきましたか?
BoA:以前は、作詞家さんや作曲家のみなさんに曲を頂いて、スタッフさんが選んでくれる曲を歌っていましたが、今はプロデューサーまではいかないけど、自分の意見を出せる環境になったし、ゼロから一緒に作っている感覚があります。
——音楽を聴く手段がCDから配信に変わるなど、この20年で音楽を取り巻く環境も大きく変わりました。その点についてはどのように考えていますか?
BoA:CDから配信に変わってちょっと寂しいというか、悲しい気持ちもあります。
私は、アナログとデジタル、両方を経験していますけど、昔はCDアルバムが貴重だったじゃないですか。アルバムを買って歌詞カードを読みながら聴くとか、そういう時間や作業が有意義だった。それに変わってデジタルが増えたことで音楽がインスタントなものになってきたというか、1曲1曲が軽くなってきている気がするんです。
一方で、デジタルの良い面は、いろんな曲に挑戦してすぐにリリースできるから、チャレンジできる機会が広がって、冒険ができることだと思います。あとは自分がどの国で出した曲でも違う国で気軽に聞けるのもメリットだと思っています。
——日本に来られない日々が続いていますが、日本に来たらまず何をしたいですか?
BoA:油そばを食べに行きたいです!それが最優先(笑)。もちろん、ファンのみなさんの前でライブもやりたいです!
——11月5日にリリースする新曲「My Dear」は約1年ぶりのリリースです。楽曲を聴いたとき、どう感じましたか?
BoA:シンプルで気軽に聞けるサウンドだなって思いました。でもメインのシンセが特徴的だから、耳に残る曲になっているんじゃないかなと思います。
——歌詞に出てくる「My Dear」は何を指しているんですか?
BoA:自分を今まで支えてくれたファンのみなさんです。
この曲はファンのみなさんに対する私からのメッセージソングなんです。もしもライブができていたら、20周年だからBoAというアーティストをもう1回、パフォーマーとして見てもらえる曲を出したかったんですけど、今はまだ家にいる時間が多いと思うから、ゆったり聴ける曲を出した方が、みなさんも癒やされるんじゃないかなと思って、この曲を出すことにしたんです。
——歌詞の中に、BoAさんの過去曲を連想させるワードも入っています。
BoA:「デニム」とか「Only One」とか「抱きしめて」とか、そういうところはファンのみなさんなら気付くと思います。あと、ファンだからこそ知っている私の性格が歌詞に表現できていると思うから、ファンのみなさんは聴きながらクスッと笑える感じもあるんじゃないかなと思います。
——「My Dear」の歌詞でお気に入りのフレーズは?
BoA:サビのところです。私は強そうに見えるけど強くないし、こんな私でもそばにいてねっていう。
結構素直なフレーズだし、本当にこれは私のことだなって思うから。“BoA”と聞くと、バキバキに踊って強い人だろうなってイメージする人が多いかもしれないけど、そんなに強くないし、頑張って生きてきたひとりの女性なんですよ(笑)。
そういう自分がちゃんと歌詞に表現されていて、嬉しかったです。
——「My Dear」は、20年のキャリアで初めての誕生日リリースとなりました。
BoA:嬉しいし、意味のあるリリースになったなと思います。でも、私、そういうことをあまり気にしないんですよね……。気の利いたコメントができなくて、ごめんなさい。私、そんなロマンチックな人じゃないんですよ(笑)。
——最後に、日本のファンに向けてメッセージをお願いします。
BoA:20周年、支えて下さってありがとうございます。コロナ禍であまり活動できないから、アニバーサリーイヤーという実感があまりないんですけど、これで活動が終わりじゃないし、ひとつの通過点としてこれからも頑張っていくので応援宜しくお願いします!
コロナ禍をみなさんで乗り越えて、また元気な姿で日本で会いましょう! 早く日本に行きたいです!
BoA:「あ、行くんだ?」っていう、ライトな感じでした。
若かったからこそ、日本デビューとか海外に行くっていうことを一大事に感じられなくて。
今、たとえば「アメリカに行きます」って言われたらプレッシャーもあるし、いろんなことを考え始めるけど、
当時はシンプルに考えてましたね。
——「やったー!」みたいな嬉しさはありましたか?
BoA:嬉しいというよりは、当時は今みたいに日本語が話せなかったから、まず言葉をどうしよう?って。
それまで日本語の勉強はしてましたけど、大至急、授業の時間を増やしました。
——当時の日本の印象は?
BoA:日本は派手な場所だなって思いました。渋谷のスクランブル交差点とか、あまり海外で見られない風景じゃないですか。あと、若い子の外見も当時は、みんな肌が黒くて金髪だったから。ヤマンバギャルとか、ガングロとか。
「なんか私、白いかも…」って思ってました(笑)。
——日本と韓国で活動を始めたときに、どのようなことが一番大変でしたか?
BoA:飛行機での移動です。時差がなかったのはありがたかったんですけど、朝イチの便でどちらかに行って最終便で帰ったり。距離が近いし、本数が多いからこそ、そういう移動が大変でした。
——日本と韓国で文化の違いを感じた場面は?
BoA:いちばんびっくりしたのはCDショップをまわること。日本で初めてやりました。
当時、タワーレコードとかHMVとかTSUTAYAとかに行って、大きいなって思ってました。
あとレンタルショップが新鮮でした。韓国にそういうお店はなかったから。
——デビュー当初、日本語でのレコーディングはどうでしたか?
BoA:最初は、日本語のタ行とかザ行とかの発音が難しかったです。
——日本語の歌詞はどうやって覚えていたんですか?
BoA:まずハングルで書いて内容を覚えて。ひらがなとカタカナは当時から読めたから、漢字にルビを振ってもらって、
それを読みながら歌っていました。あと、日本語の小さい「っ」は、歌によって伸ばしたり、伸ばさなかったりするから、最初はそれが難しかったです。
——今では漢字も読めるようになりましたが、日本語は漢字で書かれている方が意味がわかりやすいんじゃないですか?
BoA:そうですね。漢字の方が読みやすい場合もあります。
ひらがなで読み方だけ書いてあると、どこで文章をきるかわかりづらかったりもしますし。
でも、いまだに漢字にルビは振ってもらいます(笑)。
——ちなみに、デビュー当時、最初に覚えた日本語は?
BoA:「田中さん、出張はどこですか?」(笑)。
文章で一番出てくる名前が日本だと田中さん、韓国だとキムさんとか、スタッフの名前だったし、仕事で使う日本語を最初に教えてもらって覚えたんです。「出張」とか「会議」とか「電話、代わってください」とか。
——「お疲れさまです」とか?
BoA:そうです。「お疲れさまでした。今日の会議は素晴らしかったです」とか(笑)。
——すごい14歳ですね(笑)。
BoA:でも、それが良かったです。日本に行って仕事で会う方々は全員年上の方だったから、タメ語とかじゃなくて綺麗な日本語を教えてもらえたので。インタビューでも、BoAさんはすごく綺麗な日本語を使える人ですって言われるようになりましたから。
——2003年に、ファーストツアーとなる「BoA FIRST LIVE TOUR 2003~VALENTI~」を行いました。最終公演は国立代々木競技場第一体育館という大きな会場でしたが、そのときのことを覚えていますか?
BoA:実はあまり覚えてないんです。初めてのツアーで、全部日本語で、まずはパフォーマンスすることに精一杯だったから、目の前の光景の記憶が無くて。それが悲しいです。たまにそのときの映像を見ると、「うわ、すごい。なんでこれを覚えてないのかな」って残念に思います。
——日本での音楽活動で印象に残っている楽曲はありますか?
BoA:「LISTEN TO MY HEART」ですね。初めてオリコン上位(5位)に入った曲なので、驚いたし、すごく嬉しかった思い出があります。あと、最近すごく思うのは「メリクリ」です。もう15年以上前の曲だけど、いまだに冬になると街で流れるっていう話を聞くとありがたいなって。
——「メリクリ」はBoAさんにとって、どのような存在の曲になりましたか?
BoA:もともと好きな曲だし、きれいな曲だな、素敵な歌詞だなと思っていたんですけど、みなさんから愛してもらって、こんなに長い期間、聴いてもらえることはすごく嬉しいです。外国の歌手が歌った日本語の曲が、日本の冬の定番曲になったわけじゃないですか。自分が生まれてない国で、その季節になるとその歌手の曲が街中で流れるっていうのは、歌手として誇りに思います。
——振り返ると、ライブでは「メリクリ」で泣くことが多いですよね。
BoA:メロディーが明るいんだけど切ないんですよ。明るいからこそ、心に響く切なさがあるんです。悲しい涙というより、嬉しい切なさだから、歌っててジーンときちゃう。
——10周年ライブ「BoA THE LIVE 2011 “X'mas” ~The 10th Anniversary Edition」のアンコールでも「メリクリ」で感涙しました。その後、DVD用に歌い直したときも涙をこぼしていました。
BoA:1回目は「幸せだなぁ、私。こんな嬉しいこと、ないな」と思って泣いちゃって、結局、歌えなかったんです。
そしたらスタッフからDVD用の撮影があるからもう1回歌ってって言われて。2回目に泣いたのは悔し涙です(笑)。
——日本の音楽活動で、特に印象に残っているMVはありますか?
BoA:「メリクリ」です。途中で降ってくる雪は「CGでしょ?」って言われるんですけど、本当の雪なんです。
その年のトマムの初雪で、あの場で奇跡のように突然、降り出したんです。MV自体もきれいで思い出深いんですけど、
撮影の翌日の朝、部屋の窓から見えた風景が本当にきれいでした。
誰もまだ踏んでない、足跡の付いてない白い雪。あの風景はいまだに思い出します。
——MVは海外でも撮影されていますが、特に覚えているロケ地はありますか?
BoA:苦労したという意味で覚えているのは「KEY OF HEART」です。
ロサンゼルスで撮ったんですけど、砂漠で、あのヒールブーツで踊るのは本当に大変です。もう膝が痛くて(笑)。
あのMVを見ると大変だったなぁって思い出します(笑)。
——では、特別印象に残っているアルバムはありますか?
BoA:アルバムは、どれか特別に、というより、ファーストアルバムの『LISTEN TO MY HEART』から最新の『私このままでいいのかな』まで、それぞれに思い出があります。
——2010年発売の7枚目『IDENTITY』は、BoAさんが作詞6曲/作曲4曲を手掛け、その後のセルフプロデュースの足がかりになった作品のように思います。
BoA:『IDENTITY』は、いろんなチャレンジがあって、制作がいちばん大変だった覚えがあります。
私自身、曲作りに関して、まだ慣れてない時期だったから、作詞にしても作曲にしても勉強しながら作り上げた感じでした。
——10周年以降は、「Only One」をはじめ、ご自身で作詞作曲する機会が増えました。曲作りで意識していることを教えてください。
BoA:曲調とか歌詞とか、みなさんが求めるBoAはスタッフさん側で作れると思うんです。
だからこそ、自分が書く曲に関しては、自分が今やりたい曲調、伝えたいことを書くようにしてます。
だからギャップはあると思うけど、そこにいちばんプライオリティを置いてやっています。
——作詞を行うときに一番気をつけていることは?
BoA:ストーリーの流れです。みなさんが曲を聴いて、自分の経験と重ねられる曲になって欲しいなと思いながら書いています。
——「Only One」を始め、BoAさんは韓国語バージョンと日本語バージョンがある楽曲を多く歌ってきました。韓国語の歌詞と日本語の歌詞にはどのような違いを感じますか?
BoA:表現に違いがあるなと思います。それは文化の違いかなって思うときがあるんですけど、韓国語の歌詞は伝え方がストレート。日本語の歌詞は何かに例えたり、比喩したり、遠回しに伝える感覚があります。
——日頃、曲作りをする際に、言葉やメロディーが沸いてくるのは、どのようなときですか?
BoA:私は日頃から沸いてくるタイプじゃないんです。「締切だ!やばい!間に合わない!」くらいになると、やるぞ!って感じで机に向かうタイプ(笑)。
——曲作りをする時間帯は?
BoA:基本的に夜はしないです。今日は作業をやる日だと決めたら、午前中から始めて夜9時とか10時になったら締める。去年出した韓国での最新アルバム『BETTER』では、4曲作詞/3曲作曲しましたが、それも昼間から夕方に作業して終わりました。みんなが仕事する時間に仕事して、みんなが遊ぶ時間に遊ぶ。そうやって集中して作るんです。
——2006年に始まった「BoA THE LIVE」というライブシリーズは、ブランド化してBoAさんの代名詞といえるライブになりました。BoAさんにとってライブとは、どのようなものですか?
BoA:最近はライブに対する思い入れがすごく強くなってきました。特にこの2年間は、コロナ禍でライブが全然できてないから、ライブってすごく大事なものだなって。唯一、ファンのみなさんと私が同じ場所で同じ時間を過ごせる場所だから。以前は、ライブを仕事の一環と思っていたから、ライブをやるのは当たり前という感覚だったんです。
でも、今は当たり前のことが当たり前じゃなくなってきた。これからもっともっとライブを大事にしていかなきゃって思いました。
——ライブを行うときに大切にしていることは?
BoA:セットリストのクオリティです。それがライブ自体のクオリティに繋がると思うから。
セットリストを見て、私がつまらなさそうだなと思ったら、正直、ファンもつまらないと思うし。
——セットリストの作り方は変わってきましたか?
BoA:以前は、昔の曲を歌うのがそんなに好きじゃなかったんです。だけど、他のアーティストのライブに行ったときに、自分が聴きたかったヒット曲を歌わないと「なんで!?」って思ったりするんですよ(笑)。
きっと私のライブに来るファンのみなさんもそういう気持ちになっているんだろうなと思って、あまり歌ってなかった昔の曲とかをセットリストに入れるようにしています。
——20周年を迎え、今のBoAさんが表現したいことや挑戦したいものは?
BoA:最近、韓国で「STREET WOMAN FIGHTER」という番組の審査員をしているんです。女性ダンサーたちがダンスでサバイバルしていく番組なんですけど、踊りに関してすごく良い影響をもらっています。なので、ダンス曲を出してみたいなって思っています。重いビートの曲でかっこよく踊る、ダンスをメインにした曲に挑戦してみたいです。
——コロナ禍のステイホーム中は、どのような過ごし方をされていましたか?
BoA:家で料理して食べていました。日本に行けないから、日本食を作って食べたりもしました。
蕎麦が好きなので、蕎麦を茹でて、つゆも買って、わさび買って、大根をおろして食べました。あと、去年は外でのランニングが増えました。韓国の漢江(ハンガン)という川の両サイドに公園があって、そこを毎日10キロメートル近くランニングしていました。でも走りすぎて、去年、体重がめちゃくちゃ減ったんです。痩せすぎも良くないから、今年は体重を増やすように努力しています。
——音楽面で変化はありましたか?
BoA:私はもともとアンタクトな生活だったから、人に会えないことに対する辛さはあまりないんです。
マスクも喉のケアのためにいつもつけていたから、不自由に感じないんですけど、海外に行けないとか、ファンに会えないことからくるストレスで、自分で作る曲に結構ダークなものが多くなりました。自然とそういう影響が曲作りに表れていて、歌詞もわりと暗いものが増えましたね。
——音楽制作やレコーディング面ではどのような変化を感じていますか?
BoA:リモートでレコーディングすると、自分がアバターになったようで不思議な感じでした。でも、そういう作業にもこれから慣れていくというか、それが当たり前の時代がやってくるんじゃないかなって思います。
——データのやりとりで音楽を作ることも当たり前になってきています。
BoA:オンラインレコーディングは、データのやりとりとはまた違う変な感覚なんです。
自分が今、歌っている曲を日本で誰かが見て聞いているって思うと、なんだか覗かれている感じがするなって。
歌っている側の私はそう思うんですよ。今、こうやってリモートインタビューで話している映像も、見ようと思えば、どの国からでも見られるわけじゃないですか。それが少し怖いというか、不思議な感覚というか。それにも慣れていかなきゃと思うけど、できれば日本に行って、直接スタジオでレコーディングしたいです。
——この20年で、音楽に向きあう姿勢はどのように変わってきましたか?
BoA:以前は、作詞家さんや作曲家のみなさんに曲を頂いて、スタッフさんが選んでくれる曲を歌っていましたが、今はプロデューサーまではいかないけど、自分の意見を出せる環境になったし、ゼロから一緒に作っている感覚があります。
——音楽を聴く手段がCDから配信に変わるなど、この20年で音楽を取り巻く環境も大きく変わりました。その点についてはどのように考えていますか?
BoA:CDから配信に変わってちょっと寂しいというか、悲しい気持ちもあります。
私は、アナログとデジタル、両方を経験していますけど、昔はCDアルバムが貴重だったじゃないですか。アルバムを買って歌詞カードを読みながら聴くとか、そういう時間や作業が有意義だった。それに変わってデジタルが増えたことで音楽がインスタントなものになってきたというか、1曲1曲が軽くなってきている気がするんです。
一方で、デジタルの良い面は、いろんな曲に挑戦してすぐにリリースできるから、チャレンジできる機会が広がって、冒険ができることだと思います。あとは自分がどの国で出した曲でも違う国で気軽に聞けるのもメリットだと思っています。
——日本に来られない日々が続いていますが、日本に来たらまず何をしたいですか?
BoA:油そばを食べに行きたいです!それが最優先(笑)。もちろん、ファンのみなさんの前でライブもやりたいです!
——11月5日にリリースする新曲「My Dear」は約1年ぶりのリリースです。楽曲を聴いたとき、どう感じましたか?
BoA:シンプルで気軽に聞けるサウンドだなって思いました。でもメインのシンセが特徴的だから、耳に残る曲になっているんじゃないかなと思います。
——歌詞に出てくる「My Dear」は何を指しているんですか?
BoA:自分を今まで支えてくれたファンのみなさんです。
この曲はファンのみなさんに対する私からのメッセージソングなんです。もしもライブができていたら、20周年だからBoAというアーティストをもう1回、パフォーマーとして見てもらえる曲を出したかったんですけど、今はまだ家にいる時間が多いと思うから、ゆったり聴ける曲を出した方が、みなさんも癒やされるんじゃないかなと思って、この曲を出すことにしたんです。
——歌詞の中に、BoAさんの過去曲を連想させるワードも入っています。
BoA:「デニム」とか「Only One」とか「抱きしめて」とか、そういうところはファンのみなさんなら気付くと思います。あと、ファンだからこそ知っている私の性格が歌詞に表現できていると思うから、ファンのみなさんは聴きながらクスッと笑える感じもあるんじゃないかなと思います。
——「My Dear」の歌詞でお気に入りのフレーズは?
BoA:サビのところです。私は強そうに見えるけど強くないし、こんな私でもそばにいてねっていう。
結構素直なフレーズだし、本当にこれは私のことだなって思うから。“BoA”と聞くと、バキバキに踊って強い人だろうなってイメージする人が多いかもしれないけど、そんなに強くないし、頑張って生きてきたひとりの女性なんですよ(笑)。
そういう自分がちゃんと歌詞に表現されていて、嬉しかったです。
——「My Dear」は、20年のキャリアで初めての誕生日リリースとなりました。
BoA:嬉しいし、意味のあるリリースになったなと思います。でも、私、そういうことをあまり気にしないんですよね……。気の利いたコメントができなくて、ごめんなさい。私、そんなロマンチックな人じゃないんですよ(笑)。
——最後に、日本のファンに向けてメッセージをお願いします。
BoA:20周年、支えて下さってありがとうございます。コロナ禍であまり活動できないから、アニバーサリーイヤーという実感があまりないんですけど、これで活動が終わりじゃないし、ひとつの通過点としてこれからも頑張っていくので応援宜しくお願いします!
コロナ禍をみなさんで乗り越えて、また元気な姿で日本で会いましょう! 早く日本に行きたいです!